昭和45年12月5日 夜の御理解 (末永信太郎) №45-156
今朝から頂きました御理解の中に、親の悲しみと申しましょうか。天地の親神様の悲しみとでも言おうか。まあ、とにかく親と名のつくものの、これは定めでもあろうかというな御理解を頂きましたですね。今晩、夕食をさせて頂いて、今日はあの、原さんが御用で来て頂いておりましたから、原さんを中心に、高橋さん、茂さん、あと繁雄さんと、そすと若先生と六名ですか。( )で、まあ、夕食をさせて頂きながらでございましたけれど。
たまたま、若先生が申しますことが、今朝の御理解だったでしょうか親先生、今朝方、こげなお夢ば頂きましたと言うて、あの、お話をするんです。と言うのは、そのお夢ん中に、上野愛子先生が出てる。そして、上野先生のお父さんのお母さんという人がね、それはもう、ゾッとするようなめぐりを持っちゃったんですよと言うて、親先生が言われた時の、そのゾーッとするようなめぐりというのが、もう、本当に体全身ゾッとしたというようなお夢であったと、こう言うのですよね。
上野愛子先生ち、上野愛子とは、いつも天地の親神様の表現で言われる。その天地の親神様のお母さん、お父さんのお母さん、とこう言うんですから。まあ、親の親ということでしょうね。ですから、お夢の中で、ははあ、その上野先生は天地の親神様であるならば、その親神様の親っちゅうのは、教祖金光大神が頂いておられた金光様のことであろうと思うたと、こう言うのです。ね。
言うならば、知って向かえば命を取る。ね。知らずに向かうたら、でも、目を取るというほどしの神様であった。なるほど、本当にゾッとするほどしのものを持ってござった、というようなですね。いわゆる、(急に?)その夢の中で頂いたと、こう言うんです。まあ、それから私いろいろ、その話聞かせて頂きながら、ん~、今朝の御理解じゃったかも知れんね。
本当に親の、まあ、定めと思われるような、天地の親神様も、やはり金光大神は見出される前までは、大変な悲しみであったであろうと、こう。ね。自分が世に出ることは出けないというのではなくて、その、難儀な氏子が世の中に満ち溢れておる。それは、今においても満ち溢れておるに致しましてでもですよね。けれども、もう、ここに生神金光大神が出現されたところから、難儀な氏子に取次ぎ助けてやってくれという神頼みを、金光大神が素直にお受けになられた。
そして、此方金光大神に頼むことによって、おかげを授け、また理解申して聞かせて、これからの立ち行き、本当なことを分かっていくというところから、本当な生き方が出ける、本当なものの見方が出ける、感じ方が出ける。そこから、人間の幸せが頂けるんだ、出来るんだという、そういう糸口が、そっから出けて来た。ね。
だから、これから人間氏子が助かって行くことが出けるぞという、同時に、神も助かり氏子も立ち行く、上下立つように致すちゅう、今日の御理解三節ですよね。三節のようなおかげになって来るという、ほのぼのと、そこから天地の親神様も悲しいことである、また、あったであろうと思われることになるわけです。
ほれで、先月親教会での、私頂いたことを皆に聞いて頂いたんです。あの時のお祭事、まあ、合楽から若先生が奉仕しますから、一番最後、十三人の先生方が奉仕されました。一番最後の、私どもが今ちょうど、そこにちょうど永瀬さんが座っておられるところに私が座っておるなら、若先生は、この辺の一番下のここんところに座ってる訳なんです。
だから、もうあの人の一挙一動が、ここからもう、見えるわけです。それに、もう、眠かっじゃなかじゃろうかちゅうごたる風にして、もう、お行儀の悪いこと、行儀の悪いことね。とうとう、しまいには、「フワー」っち言って、もう大きなあくびを( )長々としてですね、そして、ほけーんごと、私はもう、親先生が前の方から見よりなさる。私ならもう、あんた下がりなさいち、言うじゃろうと思われるような態度を取るわけですね。
ほれから、もう、とにかく、式はこういう式をせんならんという時でも、いっちょん、それは抜かせてするわけ。もう、尺の扱い方いっちょでも、もう、こうこう、こうせんならんと、せからしかちゅうごたるで、簡単にしてから、こうやるわけです。しかも、一番こっちですから、信者一般からはもちろん皆見えますし、親先生からは、いわばこう、正面に座っとりますから、余計見える。
私は、その行ってから、(ほげて、ほんにそげん、つぐじろう?)ごとありましたけれどもね、これは、私だけのものであってね、けれども、家の若先生は、これは素晴らしいなあ、と私が思うたんです。とても、私ではあげなこと出来やせん、どげんしたっちゃ。それは、私だん、拝ませてもらいよる、そこに、永瀬さんの所に座っとったっちゃです、やっぱり、意義を正してしか拝まれきらん。それを、しかも祭員で、しかも一番皆の見えるところで、あくびをすんなら、たいがいなものが、こう、かみ殺すとかですね、手をあてるとかしますよね。はは。
ところがもう、手も当てなければ、かみ殺しもせん、一時は口開けとるとですからね、それはもう、私は本当驚きましたね、その大胆さと言おうか。その、はっは。ね。だから、これはとても、大物が出けるぞ、と。これに私の信心が入って行ったら、大した先生が出けるぞと、私は思うたです。瞬間、私が頂きましたのがね、大きな私の前に、こんなに大きな、フグの魚を頂くんですよ。
本当にこの神様ばかりは、状況に及ばんですよね。私が、あれをどうでしょうか。もう、どうした行儀の悪いち言やあ、もう、本当に親の恥さらしをする。前には合楽の信者がいっぱい座っておるとに、本当に合楽の恥さらしをするという風に私が思うたら、それは、勝彦に言うことにも毒になるでしょう、私自身も毒になる、そういう頂き方は。
けれども、これはちょっと、そればってん、考えてみると、これは本当、本当に大先生になるごたる器を持っとると、器だというような私の頂き方なんですがね。それはね、それこそ、天下一品の珍味ち言うなこと。だから、同じ事柄でもです、いわゆる、毒にもなれば薬にもなるというほどしの働きが、私どもの心を通して現われて来るわけなんです。
ですから、どうでも、今朝方の御理解のようにね、ね、いわゆる、本当なこと。ね。日柄方位ばかり見てとか。ね。例えば、お宮の境内、お寺の境内もみな神の地所とか。ということは、その、人間の物のように思うておることは、間違ったものの見方だということなんです。ね、日柄方位なんか見るということは、いよいよ間違った考え方、その、思想からそういうものが生まれて来るんだ、と。ね。
そういう考え方が、前々のめぐりで難を受ける。そういう思い方が、いわゆる、毒の方へなって行ったわけですね。それは難儀、いわゆる、私はその時に原罪ということを思うたんですね、あの、若先生のお夢の中(で?)。あの、罪の大本という意味ですね、源の罪という。ね、天地の親神様にも、その元に悲しみなされねばならないような原罪があったんですね。
いわゆる、金神様時代には、そのようなことであった、と。というようにですね、その、私どもが本当なことが分からないところから、はあ、困った子供じゃあるとかね、お礼を申し上げねばならんほどしのことを、反対に悔やんだことにしたり、困ったことにしてしまっておるという事です。これは、一時が万事、物の見方がそういうこと。本当なことが分かりゃ、お礼を申し上げねばならんことに、悲しいと言うて泣いておる。それこそ、嬉し涙、有り難涙にかけ暮れなければならんような事柄です、実を言うたら。
それを、悲しみの涙で、私のような不幸せな者があろうかと言うたり、私のような幸せな者があろうかという事になって来るんですから。そこからですね、もう本当に、大変なおかげの開きというものが生まれてくるわけです。ね。いよいよ私どもがね、本当な意味において、私はいよいよ本当なことを分からせて頂いての信心。親神様のいわばめぐりとでも言おうかね、親神様の悲しみ。ね。その、例えば悲しみがです、ね、生神金光大神の出現によって、親神様も助かって行かれる、という。ね。
私はこの辺のところが素晴らしい。金光大神の取次。いわゆる、金光大神のその事由自在な心の使い方の出来られるお方。生神金光大神とは、ね、もう、どちらへ転んでも喜びでしか受けんという境地だと、こう言われておる。ね。そういう方の取次にすがられることによって、天地の親神様が助かられることになり、同時に、私どもが助かれることになって来たんです。
だから、天地の親神様の本の罪とでも申しましょうかね。罪、めぐりも、それによってお取り払いが頂かれることになり、私どものめぐりのお取り払いも願うことが出来、おかげを頂くことが出けるといったような、まあ、おかげになって来た。今晩、その、若先生が申します。お夢の中からね、なるほど、そういうようなものであろうかな、と。今朝の御理解と思い比べてみて、いよいよ、本当なことが分からなければ、お礼を申し上げねばならないことに、不平不足を並べておるようなことでは、せっかく三界の珍味と言われるほどのフグのような味わいのおかげの受けられるおかげをです、ね、毒にしてしまうようなことになっては、相済まんことだという風に思うのですよね。どうぞ。